6.「何のためにと考えるとき」

いつか君たちも、人は何のために生きているのだろうか、とふと考える場面があるに違いない。
但し、いたずらにそれも病的に、突き詰めて考えることは絶対に勧められない。
何故ならそんな暇があるなら、他にやらなければならないことが山ほどあり、それらと真剣に 取り組んでいる方がよほど意味があるからだ。

さて、本題に戻そう。人は何のためにいきているか、父は次のように考えている。

当たり前だが、我々は蛇やトカゲ、犬や猫に生まれてきたわけではない。
折角、人として生まれてきたからには、人としてより完成されたところを目指すのがごく自然の 事のように思う。
勿論、神様仏様みたいな人間になれるものではない。
しかし、素晴らしい人間像に少しでも近づくために、日々の生活を通して修行をしているのだと 思うのだ。

人それぞれが、死という瞬間にどのレベルまでたどり着くことができるか..
いわばこの世は、各人に与えられた人生ゲームのような気がするのである。
その結果、死後の世界で因果応報というものが有るのか無いのかは知らないしどうでもいいことだ。

だが、あまりに枠に囚われすぎて窮屈に生きてもつまらない。
のべつ幕なし難しいことを考えていてもつまらない。
感情が理性を包み込む時もあるだろう。
それがまた人間らしいことでもある。
自分がやってみたいことは何をやってもいい。
ただし、自分で責任を持つと同時に、人に迷惑を掛けないことが前提だ。

いろいろと立派なことを言ってみたものの、実のところこの父も、その日の気分に左右されたり、 つまらないことに怒ったり、意地を張ってみたりする発展途上の未熟者である。

しかし時々、自らを省みて思い描く理想像に近づける努力は続けたい。
そうすることで螺旋階段を登るように、少しずつ向上して行ける。
それが、より上等の幸福を手にするためだと思うからである。

(2001年記)