12.「因果応報について」

仏教用語で、よいことをすれば必ずよい報いがあり、悪いことをすれば必ず悪い報いがあるということ。
最近の学校教育では、こういう考え方を少し踏み込んで教えたりはしないだろう。
天国と地獄があって悪いことをすると地獄に落ちる、などと言ったところで、今の子どもたちは 「見てきたの?」などと、こまっしゃくれて反論するに違いない。

生活様式が自然環境から遠ざかった分、自然に対する「畏敬」や「謙虚」というものが忘れ去られて しまったように思う。
因果応報などという言葉を聞かなくなったのは、そんなこととも無縁ではないかもしれない。

本来は真っ暗闇の夜でも、至る所が明々と灯り、街は不夜城の様相だ。
ネオン街でなくとも、各家各部屋でも煌々として暗闇の恐怖に取り憑かれることもない。
満天の星空の中に、呑み込まれてしまうような体験もできない。
巷では真っ暗闇の体験が「売り」となる、研修コースもあるというから妙な時代になったものだ。

君たち三人の娘達へ今更、天国と地獄或いは、善悪の報い、ということを話すつもりはない。
ここで言いたいことは、基本的に「その結果には原因がある」ということである。
原因を「理由」に置き換えてもいい。
勿論、運命や宿命という言葉のように、ときに理由のつけられない事も起こるがそれは話が別である。
そのような時には、現実を甘んじて受け入れる「甘受」 という懐の深い構えが必要となるので、 あえて付け加えておこう。これはこれで、覚悟や心の広さ、胆識などが問われる。

さて、
二日酔いになるのは、飲み過ぎたからであり、
肥満になるのは、カロリー過多・運動不足の結果であり、
ピアノ演奏会で観衆を前に無事に弾きこなせるのは、練習のたまものであり、
雨に濡れずに済んだのは、用心深くカバンの中にしのばせてあった折りたたみ傘のお陰である。

畑に種を蒔けば、蒔いたとおりの芽が出て実を結ぶ、はずである。
しかし、水をあげなければ芽もろくろく出はしない。
適切に肥料をあげなければ大きく成長もしない。
面倒をみなければ枯れてしまうか発育不全になるのである。

ところが手を掛けても思うように実を結ばないこともある。
種が悪いこともあるし、犬や猫にかき散らかされることもある。
根切虫にやられることだってある。

残念ながらこちらが誠意を持って行動しても結果が伴わない場合が世の中にはいくらでもある。
だからといって手抜きをしたら、いわずもがなである。
努力をして報われないことはあっても、 努力をせずに報われることはまずあり得ないのだ。
このことをもう一度肝に銘じて地道に行動してみようではないか。

一方で、文明の利器のみに頼り溺れることなく、時には自然にも馴れ親しんで欲しい。
山歩きでもいい、ダイビングでもいい、旅に出てもいい。
ガーデニングでも畑仕事でもいい。
自然の中から学び取ることも沢山あるはずである。

そして自然の営みから学ぶ畏敬と謙虚の念というものは、その深層で「感動」とも深く関係があるように思う。
いずれにしろ、今日この日このときは、明日への種まきと追肥であることを自覚して、 やがて結ぶ多くの実を摘み取ることにしようではないか。

(2004年5月3日記)